Day9 「足らない」を知る生活

この日の朝の瞑想、気づきがあった。

それは、感覚を感じるモードが選べるということ。

まあ、当たり前かもしれないけれど、例えば、お尻のあたり。

座っているから圧迫されて、そのまま何もしないと血の流れが悪い。

だから、今まで自分では気づいていなかったけれど、心臓の鼓動に合わせて動いている。

これはね、ずっと動いている。

瞑想中、ずっとこれに気づき続けているかというと、そうではなくて、そこに意識を集中した時にだけ、その運動を感じることができる。

逆にほかの箇所の感覚を感じ取ろうとしたり、そこを感じないように感覚を切るイメージでシャットアウトすることもできる。

お尻のまま、その血流を良くする運動以外の感覚を選ぶこともできそう。

 

午前の瞑想が終わり、昼食。

ここで、新しい生徒たちは食堂の張り紙に衝撃を受ける。

 

谷の水が減ったため、一時的に断水

節水するように

 

ええと、このような趣旨のことが書いてあって、だから何かっていうと、シャワーが浴びれない。

風呂もないのに、シャワーの浴びれないの!

どういうことかというと、この施設には水源が二つある。

水道水と谷水。

山奥だから、水がキレイ。

自然流下で流れてくる水をタンクに貯めて、そこから蛇口へ引いている。

その水で食器を洗ったり、シャワーを浴びたりしているの。

僕は皆と時間をずらして朝シャワーにしてるから、被害なし。

少し無理してでも皆と時間をズラしてた分、ここでいいこと?があったよ。

他の生徒たちも少し気が動転していて、昼食後の食器洗いの水が出ないものだから、食器洗おうとして「えっ!?」ってなった生徒が、後ろに列をなした生徒へ向かって「でない」とかぶりを振って言ってる。

お兄さん、アウト!

しゃべっちゃっとるよ!

聖なる沈黙を破っとるよ!!

食器洗えないの、どうしたんだっけ?

確か、トイレの手洗い場には「谷水」と「水道水」の二つの蛇口があって、水道水はチョロチョロでたような気がする。

「あんま使うなよ!」って張り紙と一緒に。

 

明らかに引っ込んできたお腹をさすりながら、谷水の貯水タンクを見る。

そして、思う。

ここではすべてが足りない。

食事もお腹いっぱい食べることはできない。

蛇口を捻ればいくらでも水が出てくるわけでもない。

自由にできる時間もない。

休憩時間でも、散歩くらいしかやることがない。

「足るを知る」どころではない、「足らないを知る」のである。

いつもはシャワーを浴びている生徒たちが、呆然と庭で佇んでいた。

 

昼からの瞑想。

ふと、踝が痛くなった。

これまでは痛みに耐えるだけで精いっぱい。

九日目ともなると、一味違う。

僕は、比較的冷静な状態で痛みのある踝を観察した。

観察し続けた。

最初は痛みだけ。

そのうち、痛みの奥に違う感覚が芽生える。

血流。

当たり前か、全身に血は巡っている。

でも、なんか他と違う。

観察を続ける。

わかった。

スムーズに流れていなくって、例のお尻の動きに合わせてビューッ!ビューッ!って流れてる。

ええと、つまりそれは・・・

ピン、と繋がった一本の線。

あれ、もしかして?

僕は少しお尻の位置を動かし、踝に圧力がかかりにくくした。

解放された踝、痛みが消える。

僕は理解した。

痛みの正体。

それは、「自然なエネルギーの流れを堰き止めること」である。

なぜ痛みなのか?

それは、血が流れない箇所があると、酸素が運搬されなかったり、排出したいものが流せなかったりして、その場所が死んでしまうから。

死を防ぐために痛みがあるんだ!

しばし高揚感に浸るも、次の疑問が浮かぶ。

あれ、じゃあ痒みは?

 

答えはなかなか出ないまま、修行のカリキュラムは進む。

昼の途中でいつもと違う形で、おまけみたいな課題が出た。

 

バンガーに入ったら、脊椎を観察しろ

 

はて、なんのこっちゃ?

解せないながらも、言われた通りにやってみる。

脊椎ってどこ?って話なんだけど、よくわかんないから背骨ズドンと観察。

いっぺんに全部を観察はできないから、バンガー状態で背骨を上から下へ、下から上へと観察していく。

足が少し痛みだした頃、異変に気付く。

ん?なんか感覚が出てきたぞ?

腰より少し上のあたり、ここに、なにか電気信号のようなピキッって感覚があった。

感覚を探す運動をやめ、この位置に集中する。

10秒、20秒・・・

じっと目を凝らすように注目していると、その感覚が一本の線となった。

脊椎と、痛みのある足とが一本の線でつながっている!

ハッとした。

そうか、わかった。

痛みを細胞が感知する→脊椎へ情報が流れる→脊椎からお尻周りの筋肉へ「このタイミングでこう動け!」って指令が下る。

だから僕たちは座っていられるんだ。

この指令が下らないと、血が流れなくなって、その箇所が壊死してしまう。

初日の朝一の瞑想。

あの時に痛みが消えた理由がこれでスッキリした。

なんらかの姿勢の変化なり、脊椎からの運動指令の変化なりで、痛みのある個所の血流が改善されたのだ。

でも、感覚を捉えるどころではなかった初日の僕は、そのことに気づかなかった。

だから「なぜ痛みが消えたのか?」がわからなかったのだ。

 

残り少なくなった修行時間。

今思うと良くなかったなと思うのだが、僕はカリキュラムを無視して「痒みとは何か?」「眠りとは何か?」を考え続けていた。

痒み。

これはちょっと自信ないんだけど、たどり着いた仮説。

痒みとは、「エネルギーの流れが最適な速度よりも速くなってしまうこと」である。

どういうことか?

血液の役割として、酸素やその他必要な物質の運搬、老廃物の排出があると思う。

そんで、その作業には適切な速度があるはず。

ほら、観覧車の乗車場所でさ、あれってゆっくりだから乗り降りできる。

あれが5倍くらいの速度だと、ちょっとキツイでしょ?

乗ってる乗客が老廃物で、あらたに乗る客が酸素、みたいなイメージ。

乗り降りできるやつ、できないやつがでてきそう。

血流が速すぎると、それと同じことが起こっているんじゃないかな?

こちょこちょって、痒いでしょ?

でも、それは予測していないこちょこちょだけ。

「ここにこうくる」ってわかってたら、そうでもない。

その箇所の筋肉を収縮させて、こちょこちょの影響を受けないようにできるから。

即ち、こちょこちょによって血流の変化が起きないからじゃないかな?

 

さて、次。

眠りとは何か?

大きく二つあると思う。

心臓の休息と、脳の休息。

これはね、ポンプの選定したことのある設計者じゃないと伝わらないかもしれない。

立っている時に胸に手を当てて、心臓のバクバクの大きさを感じてみて。

その後、横になって、同じように心臓のバクバクを測定してみて。

かなり違うでしょ?

立っているときの方が圧倒的に大きい。

なぜか?

身長分、血液をポンプアップしなきゃいけないから。

横になっている時は、体の厚み分の高さをクリアすればいい。

ポンプ用語で「揚程」って言うんだけど、水をどのくらい高く送水できるか?って指標。

産まれてから、心臓に完全な休息はない。

死んで初めて心臓に完全な休息が訪れる。

生きている間は、完全には休まないけれど、休む必要はある。

走り始めて、走って、歩いて、走って、歩いて、完全に止まる。

その、「歩いて」に当たるのが睡眠、すなわち「横たわる」ってことなんだと思う。

だから、これは究極的には、睡眠じゃない。

意識を失うこととは関係ないと思う。

 

眠り、イコール意識を失う。

これは脳に必要な休息。

感覚の処理に疲れた脳を休める、という作業。

視覚、聴覚、触覚、味覚。

これには、おそらく二つの種類がある。

「意識的に処理した感覚」と「無意識で処理した感覚」。

で、これに「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」がそれぞれ対応するんじゃないかな?

瞑想中、バンガー状態で一度「レム睡眠」状態になった。

ある日の講和の中で「瞑想することで睡眠時間を減らすってことにはならない」って言ってたんだけど、その意図はここだと思う。

ちゃんと瞑想できれば、それは睡眠と同じ効果を得られる可能性があると思う。

修行中に睡眠時間が短くなるってのも、これで説明がつく。

この修行は、感覚の処理をできるだけ減らしたカリキュラムになっている。

というか、環境。

山奥で音が少ない、目を瞑り視覚を使わない、食事が少なく、感じる味覚も少ない、性行為をしないから快感も感じない。

感覚の処理の量が少ないから、眠りによって回復する時間も短くて済むのだ。

老いると睡眠時間が短くなる理由もこれで説明がつく。

感覚器官が衰えて、処理する感覚の量が減るのだ。

 

とにかく考え抜いた九日目が終わった。