Day5 ハンターハンターの”円”

この日も勿論朝4時半からホールで瞑想。

いや、毎日よくやったよな、この時は。

連休中に自宅で一人でやろう!って思っても絶対できないよな。

 

昨日に引き続いて、「頭のてっぺんからつま先まで」を延々と繰り返す。

各ターンの最初は集中できるけれど、やっぱり途中で意識は飛んじゃう。

途切れる意識の中で必死に感覚を探る。

感じたい、感じたい!

思えば思うほど感じられないもので、時間だけが過ぎていく。

あとは、スキャンするサイズとそのルートが難しい。

5~10 cmくらいの円くらいって指示があって、このくらいかな?って思いながら進めていく。

測れないもんね、自分の意識のサイズなんて。

腕や足のスキャンルートについても色々と試行錯誤。

付け根から輪切り上に先端に向かってスキャンしていくのか、はたまたグルグル外周を回るように先端へ向かったほうがいいのか?

頭だって、やってみると意外とルートに迷うもので、これは最終的には頭の天側をデコからつむじ方向へ5分割でスキャンして、後頭部を左右にクネクネ往復しながらつむじから首へ落としていき、漏れていた首と顎の間、耳の裏側へと続く。

そんな試行錯誤をしながら1日が過ぎていった。

 

瞑想する中で気づいたことがある。

これは、ハンターハンターで出てくる技の「円」にそっくりだ!

(詳しくはハンターハンター第11巻の16ページ参照)

自分の体の内部限定だけれど。

 

あと覚えてるのがね、この日の昼食。

メインで鍋の中にデーンと居座っていたのが、「風呂炊き大根」という名の輪切りにされた大根。

ただ火が通っただけの超おいしかった大根なんだけど、「なんで風呂炊きっていうの?」って疑問が、聖なる沈黙のせいで隣の人に聞けない、携帯でネット検索できない。

これがね、すっごくもどかしい。

もどかしい想いを抱えつつ、その大根を口に運ぶ。

 

うまい。

シンプルに、ただただうまい。

 

そして、ハッとする。

これが風呂炊き大根なのであって、僕は今風呂炊き大根を理解したのだ。

自分の感覚で。

それ以上の一次情報があるだろうか?

何をほかの人に聞く必要があるのだろうか?

何をネットで検索する必要があるだろうか?

僕たちは社会で生活するうちに、無意識のうちに「風呂炊き大根とはこういうもの」という、社会で規定された正解を求めてしまう。

でも、本当に大事なのは、価値があるのは、そんな他者が規定した定義なんかじゃなくて、実際に自分で体感することのはずなのに。

 

ゆっくりと、地道に時間をかけて、少しスムーズに今日の課題ができるようになった。

講和はこの10日間の中で、5日目の今日が一番良かった。

 

この日の講和の内容は、簡単に言うと「苦悩が生まれる原因は何か?」って話なんだけど、これが超論理的かつ説得力があって、腹に落ちまくり。

全ての原因は「感覚に反応すること」なんだけど、それがどういうことかというと。

 

心地よい感覚 → 反応(気持ちよくなる )→ 渇望

不快な感覚 → 反応(嫌な気持ちになる )→ 嫌悪

 

人は他人とか出来事とか、そういうものに対して反応しているのではない。

自分の感覚に対して反応している。

無知とは自分の心の癖、何に対して反応してしまうのかを知らないことを言う。

要は、反応さえしなければ渇望も嫌悪も起こらない。

全ての苦悩が解決してしまうのだ。

では、感覚とは何か?

 

眼に映るもの・・・視覚

耳で聴こえる音・・・聴覚

鼻で感じる匂い・・・嗅覚

食べたときに感じる味・・・味覚

肌に触れる感触・・・触覚

脳裏に浮かぶ思考や想像・・・?

 

この6つ。

この6つは避けられないし、必要なもの。

ただ、それに「反応」してしまうと渇望と嫌悪が生まれ、その結果として人は苦悩する。

ゴーダマシッダルタは、そのことに気づき、反応することをやめてブッダになったのだと。

では、反応しなくなるためにはどうしたらいいのか?

その答えが「ヴィパッサナー瞑想」なのだ。

そんな、反応しなくなることができるのかって?

できる、僕は言い切れる。

既にその修行の効果を実感しているから。

瞑想中、恥ずかしながら助平な妄想が浮かぶことがあった。

いや、わざとじゃないんですよ、ほんまに。

2,3日目くらいまではその妄想に反応して勃起してしまうことがあった。

というか、少し勃起してた。

それが、4日目くらいから、勃たなくなった。

あれ?とその時思った。

脳裏に浮かんだこの映像にチンコが反応していない?

もちろん、足の痛みに反応して「うぐぐ・・・もう終わってくれ!」ってな具合に、まだまだいろんなことに反応していまう自分もいる。

でも、すでに反応しにくくなっている部分もあるのだ。

 

例えば、チョコレートを食べると「甘い、おいしい!」と歓喜する。

そして、「もっと食べたい!」という渇望が生まれる。

そうではなくて、食べたときに「これは甘い」という感覚の評価だけで終わるイメージだろうか?(自然な甘さでないものはそもそも食べるな、という話もありそうだが)

 

誰かに怒鳴られると、「いやだな、つらいな」と萎える。

結果、「もうあいつとは関わりたくない」と嫌悪する。

そうではなくて、怒鳴られた時に「○○さんが怒鳴っている」と客観的にその状態を俯瞰する。

 

修行を積めば、そんな状態になれるのではないだろうか?

 

毎度思うけど、この話も日常生活の中で聞いても、おそらくここまで響かない。

5日目まで真面目に修行して、その上で聞くからこそ沁みるんだと思う。

大事なのは内容じゃない。

いや、もちろん内容も大事なんだろうけど。

それ以上に、誰が言うか、どのタイミングで言うか、どの状況で言うか。

それらが効いてくるんだと思う。

 

さて、講和の後にシメの30分瞑想。

新たに出たお題は「リバース」。

今日までは、「頭のてっぺんからつま先まで」のスキャンが終わったら、また頭のてっぺんから繰り返していた。

明日からは、つま先まで行ったら方向逆転。

つま先から頭のてっぺんまでスキャンして、また頭のてっぺんからつま先までを繰り返す。