奥さんの状態が悪い。
朝に背中をさすってと懇願されたり、日中は寝ていたり、ボロボロ泣きながらなんか言ったり。
ようは、うつ病というやつだろうか。
原因は二つ。
気が狂った夫と普通でない息子。
きっと、理想の夫像があって、普通の子供像があって。
それと現実がかけ離れすぎていて、その乖離の大きさに耐えられないのである。
あってるかな?
僕の話は置いておいて・・・
一旦、息子の話をすると。
奥さんが子供の頃にできたことができない。
同級生と遊ぶ、だとか、けんかしない、だとか、ようはコミニケーション能力の欠如。
その能力の低さに耐えられない。
今朝も一悶着あって、息子がポロポロ泣きながら学校に行こうとしない。
理由はよくわからないけど、こうなったらテコでも動かないのだという。
奥さんが学校に連絡できる状態ではないそうで、僕が電話する。
なんてことはない。
仕事してたらもっと掛けにくい電話なんて日常茶飯事。
さて、本題に戻ると。
人は、無意識のうちに「自分にできること、できたことを他人にも求める」生き物であるように思う。
こうやって日本語を書き込んでいる僕だって、ひらがなすら理解できていなかった時代がある。
だけど、その時を思い出すことはできないし、その時のレベルで考えることもできない。
比較するのは今。
今自分ができることとの比較になる。
というか、してしまいがち。
奥さんの苦しみは、息子の年齢で自分ができたこと、それが息子にできないことを認めることができない、という苦しみ。
それを息子に求めるのは酷である。
しかし、それを求める以上、奥さんの苦しみは無くならない。
奥さんにそれを求めることをやめさせることもできない。
できないし、別に、息子の能力向上を願う気持ちは悪いことではない。
はて?ここで疑問が湧く。
僕だって、息子の能力は向上してほしいと思う。
かといって、何か具体的な計画性を持って取り組んでいるわけではない。
テキトー。
息子の能力が他の子より低いのはわかる。
でも、焦りはない。
うつ病でもない。
ああ、あれかな。
僕自身の子供時代の能力が別に高かったわけでもないから、かな?
そうすると、奥さんは子供時代から能力の高い人で、順風満帆に生きてきて、でも今、息子の能力の低さに苦しんでいる。
僕は子供時代から能力は低くて、今も低くて、絵なんてこの前息子に教えてもらって良くなったりしたくらいだけど、でも今、息子の能力の低さには苦しんでいない。
能力の高い人は、高い人で、それはそこの苦しみがあるのである。
であれば、息子は能力の低い人の苦しみはこれから味わうかもしれないけど、能力の高い人が味わう苦しみには対応しなくて済むだろう。
人生はトレードオフ。
何かを得れば、何かを失っている。
それが全てである。
息子はこれからあらゆる困難に直面するだろう。
僕はそうだったし、今もそうだし、これからだった、きっとそう。
みんな、そう。