そこにキンタマは、あった

停留睾丸の手術から一年。

停留睾丸っていうのは、本来定位置にあるはずのキンタマが、定位置にない!って輩のこと。

生まれる前、キンタマはお腹のあたりにあるらしい。

それが、かーちゃんのお腹の中から生まれてくるまでに、定位置へ移動するんだって。

100人に2人くらい、定位置まで移動せずにオギャー!やっちゃう男子。

それが、我が家の息子。

反骨心である。

 

これが、なぜ悪いかというと。

キンタマの最適温度は体温よりちょっと低いくらい。

だから、玉袋は暑いとだらけ、寒いとカマキリの卵のごとく引き締まる。

定位置にいないと、ずっと体温がモロ直撃。

キンタマは育たず、やがて最悪の場合はガンになっちゃうこともあるらしい。

 

手術は、腹と玉袋を掻っ捌いて、キンタマは玉袋に縫い付けてフラフラしないように

稀に、手術後フラフラしちゃうことがあるという。

「定期的にチェックしてね」と医師から言われたものの・・・。

この一年、坊ちゃんはキンタマ触らせてくれなかった。

オマタをすぼめ「ダメ〜!」と拒否。

気持ちはわかる。

一瞬玉袋に触れても、あるのかよくわかんなかった。

 

診察。

息子、空気を読み、玉袋解放。

キンタマは、あった。

 

帰りの通路で、ギィー、ギィーってマシン音が聞こえる。

振り返ると、看護師さんに連れ添われて中年男子?がゆっくり、ゆっくり歩いている。

自分の足の力だけでは、歩けないのだろう。

両足のマシン義足?が規則正しく唸る。

その男子の顔、いい顔なの。

「歩ける喜び、歩ける幸せ」とでも言えばいいのだろうか。

なんか、自分のショボさを感じる笑顔だった。

僕らは普段、歩けることにも、走れることにも、特に何も感じない。

せいぜい「足疲れたな」とか「ちょっと遠いから車乗ろうか」とか、そんなショボい世界。

この人だって、いろいろあったんだろうけど。

 

誰の言葉かは知らないけど、今日は次の言葉で締めたいなと。

 

幸せとは、「欲しい物を手に入れること」ではなく「持っている物で満足すること」